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エレーヌ・ジュグラリス(1916-1951)

エレーヌ・ジュグラリス エレーヌ・ジュグラリスは、1916年4月23日、フランスのブルターニュ地方キャンぺールに生まれました。医師である父:シモン・オブラニアンが、現代舞踊の母と呼ばれるイサドラ・ダンカン(1877-1927)の主治医であったことから、エレーヌは幼い時から彼女の子供たちと一緒に暮らし、舞踊の手ほどきを受けました。イサドラ・ダンカンの影響を受けた舞踊家として成長したエレーヌが、西洋の舞踊にあき足らず、もっと優美なもの・叙情的なものを追求した結果「これこそ舞踊芸術の極致」としてたどりついたのが、日本の能でした。エレーヌは、特に西洋に数多く伝わる「白鳥伝説」と通じ、ヨーロッパの人々にも分かりやすい「羽衣」に心惹かれ、その上演に情熱を傾けました。フランスに日本の大使館も領事館もない時代、能の研究・調査は困難を極めましたが、エレーヌは自分の追及する「羽衣」を作り上げていったのです。 1949年3月、ギメ美術館のホールでの初演は大成功をおさめ、各地で上演を続けましたが、結果的にこの成功はさらなる情熱を注がせただけでなく、巨額の費用を投じさせ、さらにはエレーヌ自身の体をも燃え尽きさせてしまいました。 1949年6月、アトリエ劇場での公演中、「羽衣」の衣装をまとったまま舞台で倒れ病院へ運ばれました。2年後の1951年7月11日、ついに舞台へ帰ることなく、エレーヌは35歳という若さでこの世を去りました。エレーヌが最期まで憧れを抱き続けていたのは、能『羽衣』の舞台、三保松原でした。

                               (羽衣まつり20周年記念誌「はごろも」より)

Elenestage

エレーヌ夫人顕彰式の由来

「私の代わりに、三保を訪ねてください」 このエレーヌ夫人の遺志を果たすため夫のマルセル氏が、遺髪と手作りの能装束を手に三保を訪れたのは、昭和26年(1951)11月のことでした。戦後、自信を失っていた人たちにとって、遠くフランスの地で、日本の伝統芸能である能「羽衣」の上演に生涯を捧げた舞踊家の存在は驚きであり、非常に勇気づけられることでした。エレーヌ夫人の羽衣と三保を愛する心と、その生涯に感動した人々は、彼女の功績の顕彰と、日仏文化交流の記念に記念碑の建立を計画しました。地元、三保をはじめ、非常に多くの人々の協力により、昭和27年(1952)11月1日、「羽衣の碑」(エレーヌの碑)は完成しました。碑には朝倉京子氏作による能面を見つめるエレーヌ夫人のレリーフがはめ込まれ、マルセル・ジュグラリス氏が亡き妻に贈った6行の詩が刻まれています。

Hagoromonohi

Le vent des vagues       三保の浦

De la plage de Miho       波渡る風 語るなり

Parle de celle dont à Paris,  パリにて「羽衣」に

Hagoromo a emporte la vie.  いのちささげし わが妻のこと

En l'écoutant mes jours    風きけば 

Pourront s'énfuir.        わが日々の すぎさりゆくも

H.Marcel Giuglaris        心安けし 

                  H・マルセル・ジュグラリス(有永弘人訳)

建立除幕式では、在日フランス大使様をはじめ、浜辺を埋め尽くすほどの人々が参列する中、梅若万三郎師一門が「羽衣」を上演しました。(羽衣まつり20周年記念誌「はごろも」より)その後は、羽車神社(御穂神社離宮)の例祭時に、氏子の人々によってエレーヌの顕彰が行われてきましたが、昭和59年からフランスフェア羽衣まつり(現:羽衣まつり)が開催され、その中心事業の一つとして「エレーヌ祭り(現:エレーヌ夫人顕彰式)」が行われるようになり、現在に至っています。なお、マルセル氏が携えてきたエレーヌ夫人の遺髪は「羽衣の碑」に収められ、能装束や楽譜などの遺品は清水中央図書館のメモリアルコーナーで展示されています。

Elenetenji